昭和49年07月26日 朝の御理解
御理解 第20節
「此の方が天地金乃神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非に及ばず。可愛いものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言う事を聞かぬ子が一番つまらぬ。言う事を聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」
昨日二十五日の研修会でしたので、皆さんのお話を聞かせて頂いて最近の合楽の信心の、言わば躍情たるもの、生き生きとしてそれがもう現し出してあると言う物を、皆さんの体験発表の中から聞かせて頂きました。例えばあのう関さんの発表でしたけれど、あちらは長い間水行を止められましてなさっておられる。所が最近は冷水の行と言った様な、行はもう合楽では過去のものであって、言うなら自力的な信心であって、今度合楽が大きな転換期に入って。
是からこういう信心に入って行くのだと聞かせて頂いて暫くは、どうもそれがすっきりしなかった。折角有難い水行が止められないものであった。それで、ある日お参りして来てから、丁度末永先生がお取次を、お結界の奉仕だったそうですからその事を話させて頂いたら、末永先生が今、合楽ではそういう信心になったのですからね、水行にも匹敵する様な、言わばその裏付けになる様な修行をなさって。
水行を止めたら良いですよと言われた。その時に始めて目が覚めたとね、はあそれに変わるその今まで水行して来た事は、神様へ一心を向けた姿であった。けどそれは何処までも表行である。だから一心に向けると言う事を、言うなら心行の方へ向けたらと言う様な事なのですね。最近もうお参りして来る度んびに言われる事は、よく電車やバスを利用して見えますから、おかげの泉を何回も何回も繰返し繰り返し読みながら見える訳ですね。もうそれこそ私は信心は悟りだと。
どんなに不安や心配な事があっても渾然としてああそうであったかと悟った時には不安がなくなる。今まで血の涙が流れるほどに、例えばなさけなかった事が、反対に有難涙に変わる程しの物なんですそれが悟りなのです。それで関さんが発表しておられる中にね、先月のおかげの泉の中に船諸共という気になれば楽じゃという御教えがあるね。もうあの心配もこの場面も是一つで消えてなくなったちゅう、素晴らしい悟りですよね船諸共と言う事はです、言うならばもう合楽と諸共と言う事親先生と諸共と言う事。
親先生が右と仰るのだから右になる。そして合楽の進み方がです、ほんなら船がひっくり返るかもしれん。合楽という船がけどそん時にゃもう船諸共という気になったら、もう所謂悩みが消えたと言う。しかも行じて行くと言う上には、又それもおかげの泉にね、自然に溶け込むと言う事は、自然を生かす事だという、御教えが、いうならば関さんの心の中にそれこそピンと来た訳です。だから是はこれまで随分頂いて来た黙って納めると言った様な信心がそのままそれだと気が付いた。
もうどっちかちゅうとあちらも大変口やかましいですから 娘さん達にも職人さん達にもパ-マ屋さんをしておりますからね、色々まあ今から考えると言わんで良い事を随分口うるさく言って来た事を言わんと決めた。それまで娘さん達が毎日お参りする事をどうか良い顔をしなかったのがです、もう手の平を返す様に、私がお参りがしよい様にお参りがしよい様にしてくれる様になった。
先日からもお母さんもうバスのキップを買わんならん時分だと言って一万円くれた。したら自分は五千円とばかり思うとった。したら一万円だったね、というて、まあそれからひと言ふた言でないですけれどもそういう意味でのおかげも手の平を返す様に変わって来た。今「広島ですか」縁についとられます妹さんにも今、合楽の状態を手紙に細々と書いてやった。したらその妹さんからも色々お金を送ってきたり、親先生に是これの物を買ってお供えしてくれと言った様な。
今までなかった風気が生まれて来た。もうそれこそ今合楽ではです。よく合楽を宣伝すると言う事がいわれる。もう電車の中であろうがバスの中であろうが、もうそれをもう人に伝える宣伝をする。具合が悪いという方には御神米をあげる。と言う様ないうなら合楽の生き方にです。変わらせて頂いたらもう関さんという美容院の中がね、いうならばね暗い夜から昼になった程しの変わり方になって来たという意味の事をそれこそ詳しう、昨日お話しされておられました。
今合楽でそれこそ二十五年間成りを潜めておったですね、例えば普通ではお導引きとか、言う様な事はどこの教会ででも、又皆さんかお導引くと言う事に非常に力を入れてあるからいわれます。でも合楽ではお導引くと言う事を二十五年間いうて来なかった。所謂その言葉はちょっとそれに適当しないけれども、やっぱり宣伝という言葉が一番適当だから、私宣伝という言葉を使うがね。
とにかく今合楽でおかげを頂いておるおかげを現しておる。それをそのまま又、自分達の心の中に合楽を頂き現している事実をね、所謂宣伝をする、五のものを十に言う事は要らん。只、ありのままを人に伝えて行く。宣伝をする。しっかりこの宣伝をしなけりゃならんと言うたのに、早速それに便乗させて頂く。ね、そすっと自他共に助かって行く道が開けて来る。と言うならば親の言う事をちょっとそこに抵抗を感じたけれども、長年して来た修行を止めなければいけないのですから。
だからその裏付けになる物を黙って、修めるとか、自然に溶け込む事の修行にとかね、同時に大きな一つの悟りとはしてです。本然として船諸共という気になったら、親先生が今ああいよんなさるから、親先生の言いなさる事の通りして、もしそれがその船がひっくり返る事があってもいとわないと言う様な気持ちになったら、その事だけじゃない、あの不安もこの心配も、船諸共という気になったら楽と言われる。
その楽な気持ちをです、もう日々体験しておるから、日々それをお届けしなければおられない程しのおかげを受けておるというお話をなさいますね。どしてそのそうゆう二十五年間もです。普通でいうならば、おかげを頂いとらん人に導きなさい、お話をしなさいというのが普通ですけども、合楽では是を、全然言わなかったんです私は。それはやはり自分の実力と言う物が知っておるし、今から考えて見るとですね。
それはもう私は、表行と言う物は二十数年水行一つ致しませんでしたけれども矢張り、やむにやまれないと言う方は断食をしたり、それこそ冷水の行を、とてもそげな修行をよう出来なさると言う人が、たまがる位な修行を取り組んでやって来た。だからそういう、今から十日間なら十日間の断食を致しますからというお取次を願われると、それを私はお取次させて頂いた。
いろんなそういう表行をさせて頂いたけれども、そういう言うならば、私はそういう合楽の信心であったなら、矢張りなら折角導いて来られたのに、それを見ただけでもあ然としたり、それを聞いただけでも、これゃ程度が低いというて離れていったに違いない。所が、今の合楽ならどういう識者でも、どういう人でもです、もう何処を見て頂いても聞いてもろうても、合点の行く道理にあった信心だと言う事に、いうならば見本は完全に出来たと言う事なんだとね。
私が言う事が口不足で解らんなら、一辺合楽に見て下さい。この合楽の姿こそが合楽であり、極楽であるという事実をね、見せられる物だけの物が出来て来た。聞かせられるものが出来てきた。そこにですいうなら、天地が引っくり返る様な言わば、変わり方に今度先日の御理解の言葉で言うとです、愈々合楽を現す事の時季が到来して来たね、その到来の胎動感ずるとね、信奉者一同こと如く不動瞑人只、世紀の神願成就へと言った様な言葉になって来る。
そういう合楽を愈々世界に現して行けれる胎動を感ずるんだと、そこにはね不動瞑神なんですね、親先生を信ずるというか、動かない不動の信念、かもそれを明示、明るく速やかにと言う事ね。親先生が右といえば右へパッと入っていけれる。例えばパッと左へ入っていけれる。もういうならば、表行の時代は済んだ。表行を止めなさいといやあ表行に匹敵する心行に切り換える。そこにです、誰に聞いてもろうても見てもろうても、合点の行く信心に二十五年間掛かってようやくそれが出来た。
その見本が出来た。だからその見本をもって皆んなに宣伝をしょる。だからそういう生き方にですすぐその私は名人と言う事、昨日もある方が大変良い話をなさいました。けれども是だけはというて話をしておられたのが、長い間茶絶ちをしておるという方です。お茶を飲まないと言う訳です。絶対お茶を飲まないだからもう是は合楽の信心に添わないという意味じゃありません。お詫びの印で御座いますからというお話をされた。
それで私研修会が終ってから最後にです「00さんいかにお詫びの印であってもね、その茶絶ちだけはお止めにならなければ、今の合楽と言う舟がそこへ来ておるとするならその船に乗りそこなうよ」と私が申しました。だからもう速やかにその茶絶ちだけゃやめなさい。その代りに例えば、人を責めんなら人を責めんと言った様な修行に切替えなさいというて申しました事ですけれども、そんなにです。例えば自分がお詫びの印しだというておる様な事でも。
今日の御理解でいうと、親の言う事を聞かん子が一番つまらんと言う事になるんですね。此の方が天地金乃神様から教えられた事を教えて下さっておる。ね、ここでは、私でも、言うなら同じ小とでもあります。是から愈々、おかげの頂いて行けれる、昨日末永先生が司会をいたしましたが、司会の最初にあたって申しております様に、今の合楽は、今まではです、それこそ下から上に水を流す程しに難しい大変な修行をさせてもろうて今日までおかげを頂いてきたけれども。
是からは上から下への水をながす様に、しかもね神が道を開くと仰る所に来ておるのだからね、自分我力と言うものではない、神様のおかげで道が開けるという時に来ておるのであるからと言う様な事を申しております。事実そうなのです。ですからそれにあまり楽、そげなこっちゃという躊躇する様なね。所が今まで表行なんか一生懸命しておった人達は感じるだろうと思うけどそうゆう様な事がです、私はね言う事を聞かん子は是非に及ばず、可愛い者じゃ、又時を待ってと言う様な事に成って来るのです。
まだいくらでもあるのです此処ではね。お酒を十年間飲みませんという人もありますよ。だから十年間と神様に約束しておるから、こらどうでもこうでもやり抜かにゃと言う様な事はもうそれこそさらっと止める。そういう例えば私が水行をしております頃ですから、もう、風呂なんかには一生入ろうと思っていませんでした。その時代、もう二十年も前の事でしょう。朝晩、水行をするから、もうその必要はないと思っておったし、一生風呂には入らないと言う神様にお誓いしておった。
所がタオルのお供えがどんどん来るし、石鹸のお供えがどんどん来る。最後には風呂桶のお供えまで来たんですからね。だから神様にお伺いせん訳には行かなくなったんですね。そしたらもう神様の方がですね、もう側から見ておられない訳です。風呂んどんも入って、さっぱりと垢を落としてね、だからあのうお風呂に一生入らんと決めておったけれども、お風呂に入らせて頂いて、それこそ風呂の淵にしがみ付いて私泣いた事を覚えております。もうどうしてこりゃ風呂に入らじゃならん事に成ったと思うてね。
それは私の歓喜でなく、神様の喜びであったと思うのですね。例えば一生風呂に入らんと言う事を、いかに神様がですね、修行の最も最中といいながら、そういう修行をする事を神様がね、悲しく思ったり、いうておられたかと言う事が解るでしょう。その代り私がそういう意味でいうなれば、合楽の大きな一つの、転換期にあたって言うならば自力的な信心から、他力的な信心に変わって行くというのですからね。それども今迄とはあまりにも違った事になって参りましたから躊躇もするけれどもですね。
関さんじゃないけれども、本当に今迄して来た表行の裏付けになる心行をと言う事になって来たら、その心行をいかに神様が喜ばれるかと言う事が、早速手の平を返す様にお店の上にも子供宅の上にも変わって来たという事実なんですね。そして親先生が言われるそのおかげを人に宣伝しなければおられないと言う事に成って来た。是なんかでも寝、いかに合楽が変わったかと云う事はね、二十五年間鳴りを潜めて気た、お導きとか人に伝えると言った様な事はですしなさんなとはいいませんでしたね。
けどせろとはいいわしませんでしたよ。それは皆おかげを受けてから、受けた話を皆さんが人に伝えて行く、自然のうちに伝わって行ってなら、今日の現在の合楽があるのですから。けれども私としては全然それには、事は申しませんでした。宣伝せよともお導きせよとも言わなかった。二十五年間言わば言わずに来た事ですね。言うなら二十五年振りに今度は反対に言えと言うて来た。宣伝せにゃいかんばい。帰り道にも話していかにゃいかん。ね、汽車ん中でもバスん中でもとまあ言うて参りました。
そこで最近丸少の方達が合宿して、今度全国大会に出る迄に丸少の皆さんか、皆んな毎年ですけれども、冷たいものを飲まないという食べまいという修行をしております。だからその事を私、神様にお願いしたんです。是も止めさせようと思うて。所がね是はね、是は例えば子供達が冷たいものを飲み過ぎたり、食べ過ぎたりしてから、おなかを壊したりする訳でしょ。だからね是は衛生的にも良いから是は止めるなと神様から頂いたですよ。是は修行というより身体の為に良いんだと言う事ですね。
だから神様はあれは修行として受けては御座らんです。子供達がけなげにも冷たいものは食べん。冷たいものは飲まん。やっぱやっていますんですね、これならうんならのどが乾く時に熱いお茶やら熱いさゅやらでも結構それでいいです。しかも、うんなら、ちょうど、子供達がさあ食べだしたらきりがない。さあアイスケ-キ食べた冷たい西瓜食べた、そして寝冷えしたと言った事のない事の為ですから、是は、神様が止めるなとおっゃる。神様が修行として受けてござらんとですね。
それはかえってですね、子供達の為になる事だからというのです。本人達ちゃ修行修行じゃと思うて一生懸命するね。まあ、健気な事ですね。私は本当にこれも止めさせ様と思ったからお願いしたらそういう意味の事を頂きましたから、一つ是は毎年でもなさるがいいと思うね。丸少の人達は。私は今日は此処の所のね、言うことを聞かぬ子は親でもしかたがあるまいがと言う所をです、今の合楽の場合あまりにも激しい変わり方ですから、今までして来ておった信心から、矢張り未練がある。
それこそ昨日の00さんじゃないけけれども、いや是だけはちゅうちから頑張っておられる。しかもそりゃもうお詫びの印ちうならお詫び印ちゅうならまちっとましなね、それこそ腹を立てぬとか人を責めないとか、そういう尊い言うならば修行に切り変えなさったらいや切り変えなさらにゃいけません。そういう修行はもう本当やめなきゃいけないと、私は申しましたけどまあどうで御座いますか、いいやち言いなさるかも解らないね。是は中々一辺にとはいけないけれども、言うなら不動瞑神と言う事。
私の言うておる事を信ずると言う事。ふどうとは瞑神というその事を速やかに切り変えて行くという働きを持って愈々正規の神眼、いや本当においての神様の願いが成就する。愈々世界に合楽を現していけるというその胎動を感じる様な時なのですから、ね。もう速やかにそこん所の切り変えさせてを頂くと言う事が、とりもなおさず親の言う事を聞く事であり、神様の言う事を聞く事になる訳であります。
どうぞおかげを頂いて下さい。